長窪城跡(ながくぼ)と旧中山道長久保宿

   

道の駅マルメロの駅ながと拠り出発して、あるミッションを遂行すべく出発と思いましたが、観光案内板に、長窪城跡の記載を発見してしまい、寄らずには移動できなくなりました。

見た目にはとても近く見えるし、歩いても行けそうに見えましたが、近くまで行って、駐車場を探してから登城しようと考え近くまで行きました。

桑窪城跡(ながくぼじょうあと)

道路脇に案内板が何ヶ所か有りそれに従い行くと途中で不明になりました、だいたい途中でなくなることが多いですので驚きません。
とある空きスペースの沢山ある駐車場に停めて、農作業中のお父さんに城跡への入り口と駐車可能な所を尋ねました。
すると峠越えの広い道に出て案内板があるのでそれで登れば車で行けるとのことでした。
この車(ハイエース)で行けるかも訪ねると、首をかしげて「行かねぇほがいいかな?」相当狭いようです。
歩いて登るつもりの旨を伝え、駐車場を訪ねるも、「此処で大丈夫だよ~」本当に良いの?「今日は土曜日で休みだから大丈夫だ」と言う、そこまで仰るならお言葉に甘えるとしました。
(もしかしてこのお父さんが貸してる土地かもしれませんが)

そして、水のペットボトルを持ちお農家の父さんの言う山道に徒歩にて、登りました。

最初の2カーブ目までは、これは車で来ても問題無いのかと、若干後悔をしましたが、数カーブ後でやっぱり徒歩で良かったと痛感しました。太い木の枝が垂れ下がり、大人の目の高さぐらいまで枝が伸びていました。軽トラでしたら、多少の傷を気にしないで走行出来そうですが、絶対に我がハイエースでは通過できませんよ、しかも途中で気づいたとしてUターンする場所が頂上の手前の駐車可能な広場まで全くありませんでした。(お父さんに感謝します)

林道

長窪城への林道

案内地図

概要

室町時代の西暦1394年~1427年(応永年間)に、大井氏、または芦田氏(依田氏)によって築かれたと伝わります。
大井氏の親類衆が長窪氏を名乗り、城主となりました。
西暦1543年(天文12年)に、甲斐の武田晴信(後の信玄)の軍に攻められ、相木昌朝や芦田信守が内応したため、奪還されました。
武田氏の支配となった長窪城は、武田氏が北信濃に進出するための重要な拠点となりました。
信玄が長窪城に着陣し、東・北信濃を攻略したのは、西暦1548年(天文17年)の上田原の戦い、西暦1550年(天文19年)の砥石城攻略、西暦1553年(天文22年)和田城、高鳥屋城、塩田城の攻略と3回ありました。
西暦1582年(天正10年)武田氏が滅亡すると、小県郡は真田昌幸の領地となり、西暦1583年(天正11年)昌幸が上田城を築くと、長窪城は廃城となりました。

長窪城鳥瞰図

4郭と5郭の間の堀切

長窪城4郭と5郭の間の堀切と4郭に通じる歩道

3郭と4郭の間の堀切

長窪城3郭と4郭の間の堀切

長窪城主郭

長窪城主郭

遂に主郭に登頂成功です。

農家のお父さんにご挨拶

そして、駐車場に戻ると、先ほどの農家のお父さんが、僕たちを待っていたかのように、農作業を中断して休憩中でした。

お父さん「早かったなぁ」

僕たち「はい、やっぱり 歩いて行って良かったですよ」

お父さん「これじゃ(ハイエース)あぶなかったわなぁ」

僕たち「ありがとうございました。たすかりました。」

お父さん「どこから来たんだぃ」

僕たち「栃木県です」

お父さん「遠くから来たなぁ」

僕たち「結構、城跡に来る人に場所とか駐車場とかを聞かれませんか?」と訪ねると

山の裏手に別荘があるので夏になるといっぱい来るとのことです。と言う事はですよ、お父さんはボランティア観光案内人なのかもしれませんね。

道の駅マルメロの駅ながとから長窪城主郭

丸で囲った所が、長窪城の主郭部分です。低そうに見えますが、麓の民家などとの比較高は約70メートルあります。後に見える高い山とは沢を隔てて直接繋がっていない独立した山でした。

道の駅マルメロの駅ながとから長窪城主郭

 

旧中山道 長久保宿(きゅうなかせんどう ながくぼじゅく)

目的地は、旧和田町ですので、本来は道の駅マルメロの駅ながとの脇の国道152号に出て行くべきですが、長久保地区は、旧中山道の宿場「長久保宿」の地でもあります。古い町並みが僅かですが残りますので、通り抜けながら撮影しました。

国道152号とほぼ平行に旧中山道があり、長久保駐在所から南へ数百メートルに点在し、雰囲気が残ります。

旧中山道長久保宿1

旧中山道長久保宿2

 

スポンサーリンク

 - 日本一周関東甲信越 ,