常圓寺と片平本城跡「栃木県那珂川町」

栃木県那須郡那珂川町の、と片平本城跡の紹介です。

常圓寺

栃木県那須郡那珂川町(旧小川町)の、国道294号と県道233号の神田城交差点を約2km南進すると道沿いに、西側に見えます。

案内地図

由緒

浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)に属する。 開基年代は不詳ですが、当初は天台宗の寺院であったと伝えられています。
西暦1157年(保元2年)照證法印成善阿闍梨(俗称は那須太郎資隆の弟、那須次郎資房)が片平字竹ノ内に再興しました。
西暦1189年(文治4年)片平城主八郎義隆(那須与一宗隆の兄)が亡父資隆(法号佛光洞照)の法要を営ました。
西暦1190年(建久1年)後鳥羽天皇の時代に後白河法皇より勅願を賜り、佛光山東照院と号しました。
西暦(1210年(承元4年)成善阿闍梨が亡くなり、無住の寺院となりました。
西暦1213年(建暦3年)片平城主義隆が、蛇身済度(別記)の報謝として親鸞聖人へ当寺を寄進附属しました。
西暦1226年(嘉永2年)現在の地である片平字木之下に寺基を移転しました。
西暦1228年(安貞2年)聖人の高弟である高田の覚信房(俗称は常陸源氏佐竹冠者、昌義の嫡男忠義の甥、太田四郎義照。関東六老僧との説もある)が聖人より住持として遣わされました。覚信房は、聖人が京都へ上洛の後にはご教化を仰ぎに上洛し、五条西洞院の聖人の禅房において、西暦1255年(建長7年)に75歳で往生したといわれています。
息子の念性は父の遺骨を拾い、当寺境内に埋葬した。その後、当寺第2代念性の時分に、第2代宗主如信上人が大網より上洛の途中に覚信房を偲んで立ち寄られ、その際に寺号を常圓寺と賜ました。
また、第3代宗主覚如上人がお立ち寄りの際には、覚信房の墓印の赤樫を見て「真宗の印の樫と聞くときは 堅き御法は金剛の信」と詠まれたといわれています。
西暦1573年~(天正年間、第11代宗主顕如上人の時代)本願寺と織田信長との10年余に亘る戦い(石山合戦)に、当寺第8代玄性を筆頭に門徒衆10名が参戦して帰郷しました。(参戦した門徒衆の子孫も現在繁栄しているそうです)
西暦1636年(寛永14年)本堂および諸堂が火災のため全焼しました。
西暦1645年(正保2年)仮御堂を建立しました。

山門

那珂川町常圓寺山門

鐘楼

那珂川町常圓寺鐘楼

本堂

那珂川町常圓寺本堂

片平本城跡

常圓寺の境内からも行けますし、境内脇の墓所への道を通っても行けます。

概要

那須資隆の第八子堅田八郎義隆が築城したと言われるが築城年代は不詳である。当城は、常円寺の東南の裏山の急傾斜した頂上に築城された山城である。本丸と思われる所は20aほどの平地があってそれを幅1.8mの堀が取り巻いている。東北方のを本丸より2.3m低くして堀を作り、更に1.5m低くして、また階段式に防備がなされていた。東北方2段目くらいに屋敷と倉庫を建てた跡が残っている。そして南方に井戸沢という沢があり、ここから城内に水を送ったと伝えられている。大手は北方にあつたらしい。また、物見櫓は一の堀に設けられていたと思われる跡がある。伝えによると、元亀元年(1570)庚牛2月19日未の刻(午後2時)兵火により落城とある。               那珂川町教育委員会

那珂川町片平本城跡入り口

入り口の案内柱を発見して、意気揚々と登りました。

那珂川町片平本城跡途中の山道

最初のうちは、獣道風に通路がありましたが、登るにつれだんだんと道らしき物がなくなり、藪と倒木で進む事が困難な状態でした。帰り道が解らなくなる前に退散しました。

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