栃木県河内郡上三川町上三川の、上三川城跡(上三川城址公園)の紹介です。
上三川城跡(上三川城址公園)
上三川城は上三川町の中心部の東にあり、しらさぎ幼稚園に南に立地し、きれいに公園化されています。
上三川城址公園
城のある場所は水田地帯を望む微高地であり、完全な平城です。
公園は本郭部分だけですが、かなり手を入れられています。小口(虎口)は南、東、西の3方向に開いています。
本郭は80m四方位の広さがあります。郭内は一面の芝生が整備され、幼児連れの親子や散歩する方がいたり、サッカーをしている子供がいました。土塁上は遊歩道になっており桜が植えられています。
上三川城の小口の石垣を堀を渡る橋の手前で撮影しました。
石垣と堀を東方向から西方面を撮影しました。
小口(南方向)から北東方向を撮影しました。
本郭内、東方向から西方向を撮影しました。
上三川城
西暦1249年(建長1年)、宇都宮頼綱の二男、頼業の築城といわれています。
頼業は、初めは横田城を居城としていたので、横田姓を名乗っていました。
上三川城築城以降は代々居城とし、8代目の元明の時、今泉に姓を変えています。
上三川城に係る戦いで西暦1558年(永禄1年)に起きた「多功の戦い」があります。
これは、当時長尾景虎と名乗っていた上杉謙信が宇都宮氏攻撃に攻め寄せ、これを宇都宮氏の軍が撃退したという戦いです。
小田原の役で北条氏が滅ぶと、宇都宮氏で跡継ぎ問題が起き、当主宇都宮国綱には男子がなかったので、豊臣秀吉のあっせんで五奉行の浅野長政の三男長重が推挙されました。
家老の14代城主今泉高光はこれに賛成しましたが、宇都宮国綱の弟芳賀高武は反対して対立してしまいます。
西暦1597年(慶長2年)5月、芳賀高武は上三川城を急襲、落城し、城主今泉高光は自害して廃城となりました。