千葉県夷隅郡大多喜町大多喜の大多喜城跡(県立博物館大多喜城分館)の紹介です。
大多喜城跡(県立博物館大多喜城分館)
大多喜町は、房総半島中央部の山間地にあり、やや外房寄り(東側)に立地します。
西暦1521年に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりと言われています。
近年の発掘調査により現在の城の地下に大規模な城の遺構が明らかとされました。
小田喜城と大多喜城とが完全に重なる訳ではありません。
現在では信清の小田喜城を元にして後の大多喜城が築かれたものと考えられています。
大多喜城は、夷隅川の蛇行による曲流に囲まれた、半島状の大地の西北に位置します。城郭としての要衝部は西側の山塊が東に延びた突端に縄張りとする近世城郭で平山城です。
本丸、二の丸、三の丸の構成でした。
大多喜城は徳川家康に与えられ、徳川家の武闘派の武将、本多忠勝が大多喜藩10万石城主となりました。
この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしてきましたが、西暦1619年9月、藩主阿部正次の移封により大多喜藩は一時的に廃藩となり城は荒廃しました。
本田忠勝は西軍に味方した真田父子の助命に尽力しました。(娘婿が真田幸村の兄)九度山に幽閉され一命はとりとめました。
後に、本田忠勝の様に武勇に優れた家臣より治文の優れた者が優遇され晩年は嫡男に家督を譲り隠居しました。1610年桑名城にて63才で死去しました。
本丸付近に土塁、大手門付近に堀跡が残り、二の丸に大井戸が残っています。
本丸跡と大井戸は「上総大多喜城本丸跡 附 大井戸、薬医門」の名称で千葉県指定史跡に指定されています。
城跡入り口には、町営の駐車場があります。一般車両は、通行禁止ですので雨の中を歩いてゆきました。
舗装された道路を歩いてゆくと、途中に大多喜城二の丸公園の案内があり立ち寄りました。東屋があったので、雨宿りをかねて暫し休憩です。
大多喜城の本丸に天守閣が立派にそびえていました。現代建築の博物館です。
千葉県立中央博物館大多喜城分館というミュージアムです。
徳川四天王のひとり、本多忠勝を初代城主とする 近世大多喜城の本丸跡に城郭様式で建設した博物館です。〔房総の城と城下町〕をテーマに刀や鎧、衣装等を展示しています。秋には毎年、県内外の多彩な資料を集めた特別展を開催しています。
県立中央博物館大多喜城分館は、千葉県指定史跡の上総大多喜城本丸跡に建設された天守閣づくりの 特色のある歴史博物館です。
この博物館は房総の中世から近世までの武器・武具や城郭、武家社会などに関する歴史 資料を展示紹介する専門館と総南地方の地域の文化財を紹介する地域博物館としての機能を持っています。
また、歴史教室や講座を開催するほか、歴史資料の調査・研究・保管・展示を行い、県民が身近に地域の歴史に触れ、生涯学習に寄与することを目指しています。県立中央博物館大多喜城分館ホームページより
愛犬は、入場できませんから一回りしてから、駐車場に戻り千葉県立大多喜高校付近まで車で行きました。
大井戸
大多喜高校の敷地内に、かつて使用されていた大井戸が保存されていました。
城門
この門は、薬医門で天保十三年の火災後建築された二の丸御殿の門でありました。明治四円の廃藩の際に小高半左衛門に払い下げられましたが、大正十五年に曽孫に当たる県立大多喜中学校第一回卒業生の小高達也氏より大多喜高校に校門として寄贈されました。昭和四十年当初に始まる大多喜高校新校舎新築の際に一時解体保残されていましたが、昭和四十八年に復元されました。
高校の校舎とのコラボレーションです、ミスマッチ?かな。
この城で現存する唯一の建造物です。雨に濡れた屋根や石畳が、尚いっそうの「わびさび」を引き出してくれました。
雨でなかったら、もう少し長居したかったのですが、しかし雨でもそれはそれで、違った味わいがあると思います。なんでもそうですが、いわゆるポジティブ思考で行かなくてはね。
大多喜城跡(県立博物館大多喜城分館)データ
所在地 | 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481 |
電話 | 0470-80-2176 |
休館日 | 毎週月曜日 12月26日~1月4日 |
開館時間 | 9:00~16:30 |
駐車場 | あり(無料) |
トイレ | あり |