栃木県栃木市岩舟町(旧岩舟町)の、円仁(慈覚大師)が修行した、大慈寺(だいじじ)の紹介です。
大慈寺(だいじじ)
栃木市岩舟町の、東北自動車道と北関東自動車道の岩舟ジャンクジョンの北を、東北自動車道と並行に走る県道75号の旧道へ入ると案内看板が見えてきます。
由緒
寺伝によれば、西暦737年(天平9年)に行基が開基した寺院とされ、二祖は道忠、三祖は広智とされます。
道忠は鑑真の高弟で最澄とも親交があった僧であり、東国の化主と称されました。
広智の時代に、大慈寺で修行していた円仁(慈覚大師、後の第三代天台座主)、安慧(後の第四代天台座主)などを最澄のもとへ弟子入りさせ天台教学を学ばせています。
西暦817年(弘仁8年)に、最澄(伝教大師)が弟子たちとともに東国を巡錫した際に、大慈寺にて大乗戒の授与を行い、東国への天台布教の足場とした。
また、法華経による国家鎮護のため、最澄が日本国内の6箇所に建立を計画した六所宝塔の1つが建立されました。
大慈寺には、には小野小町に関わる伝説があります。伝説によれば、小町は大慈寺の本尊薬師如来に病気平癒の祈願をし、その結果治癒したため、終世大慈寺所在の小野寺の地に住んだとされています。近隣には小野小町の墓が現存しています。
慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん)
天台宗第三代主座慈覚大師円仁様は、最後の遣唐舟に乗って唐にわたり、日本の天台宗を大成させた、わが栃木県が、わが国が世界に誇る偉人であります。
円仁様は9才より大慈寺で修業をはじめ、15才のときに比叡山に登り最澄様の弟子となります。
そして43才の時、天台宗の密教を完成しようという希望に燃えて唐へとわたります。この旅の模様を円仁様自身が書き残した『入唐求法巡礼行記』は、日本人最初の本格的旅行記であり、その価値はマルコ・ポーロの『東方見聞録』、玄奘の『大唐西域記』とともに、世界の三大旅行記の一つに数えられています。
己れの出世欲のかけらもなく、ただ人々の魂を救うため、日本に仏教の火をともすため、命懸けで仏の真の道を求め続けた円仁様の信仰の生涯は、1200年後の今も私たちの心に、深い感動を与えつづけ、受け継がれているのです。
大覚寺ホームページより
小野小町伝説
小野小町は、平安時代の女流歌人、六歌仙の一人です。
小野小町は、絶世の美女として有名でしたがそれ故に、恋多き女性として語り継がれ、数々の“小 町伝説”が生み出され、多くの文芸作品などに登場しています。
円仁と同じ遣唐船で唐へ渡ろうとした「小野篁」の孫であるともいわれていますが、その出生や家系ははっきりしていません。
和歌の優雅な作風と、その才能に劣らぬ美貌とで、華やかな人生を送ったと思われますが、老後、身を崩し病にむしばまれた折、当大慈寺を訪れています。自身の病の回復を願った際の、薬師如来様との歌のやりとりが今も伝えられています。
その歌は境内の“小野小町の碑”に刻まれています。
小野小町の最期も当小野寺の地であったと伝えられています。年老いた小野小町は、ある日大慈寺裏の諏訪が岳の断崖に登りますと、幻を見ました。それは崖の彼方に紫色に輝く、見事な薬師如来の世界でした。それを見た小野小町は、これこそまさしく薬師如来の世界に違いない、と感動のままに崖から身をおどらせていったといいます。それが小野小町の一生の終わりでした。小野小町は村人たちによって手厚く葬られ、その墓所は今も大慈寺境内の近くにあります。この小野小町が身を投げた場所を身投げ淵といい、小町の髪の毛が当地方のイグサになったとも伝わっております。
大覚寺ホームページより
山門
本堂
慈覚大師堂
護摩祈願の道場で、この形は全国に二体しかないその一つです。
自刻の慈覚大師像に毘沙門天、不動明王像を祀り、古い天台の信仰を伝えています。
栃木市(旧岩舟町)指定文化財(建造物)
相輪塔
西暦815年(弘仁8年)に、伝教大師(最澄)が全国6ヶ所に建立した1つですが、後に大火で消失してしまいました。
現在のものは西暦1725年(享保10年)に、当寺第96世の、智周法師が再建されたものです。
正面には、日光山輪王寺門跡公覚一品親王の、御筆で南無妙法蓮華経の、7文字が刻まれています。
栃木県指定有形文化財(建造物)
高さ約5.5m 鋳造青銅製
鐘楼
大慈寺データ
所在地 | 栃木県栃木市岩舟町小野寺 岩舟町小野寺2247 |
電話 | 0282-57-7286 |
称号 | 小野寺山 大慈寺 |
宗派 | 天台宗 |
駐車所 | あり |
トイレ | あり |