藤田能登守信吉公墓所と実相寺「栃木市西方町」

   

栃木県栃木市西方町の、藤田能登守信吉公墓所と実相寺の紹介です。

実相寺

栃木市の旧西方町の、国道293号から栃木市立西方中学校の北側の交差点を西進して、東北自動車道をくぐり抜けると、実相寺が見えてきます。

実相寺案内地図

実相寺由緒

西暦1600年(慶長5年)2月の創建、開基は結城城主結城晴朝、開山国大佑和尚と伝えられています。

実相寺石碑

西方町実相寺石碑

実相寺鐘楼

西方町実相寺鐘楼

実相寺本堂

西方町実相寺本堂

実相寺データ

所在地栃木県栃木市西方町元元1739
電話0282-92-2030
称号那智山 実相寺
宗派曹洞宗
駐車場あり

藤田能登守信吉公墓所

鐘楼の脇を通り、本堂の裏手にある杉山の中に、があります。

概要

藤田氏は関東管領上杉氏の重臣でした。しかし小田原北条氏に屈し、その配下となりました。
北条家から婿養子を押しつけられ、藤田氏の正統は遠ざけられ、信吉の兄は婿養子の北条氏邦に毒殺されてしまいました。
信吉は武田勝頼を頼りますが、その後上杉景勝へと主を変えました。

上杉景勝は織田信長の侵攻で領土を侵食され、越後国内でも内乱が勃発し、滅亡寸前に追い込まれました。しかし、本能寺の変が起き九死に一生を得て、更に山崎の戦いを制した豊臣秀吉とよみしを通じ、反転攻勢へ、信吉は越後内乱平定戦で武功を挙げ上杉家中での地位を不動のものとしました。

豊臣秀吉による小田原征伐にも従軍し、兄の仇北条氏邦の籠もる鉢形城開城の使者を務めました。
やがて、上杉景勝が会津へ移封になると、越後との境に位置する津川城の城主となりました。

秀吉が没し、徳川家康が天下を目指す時期、上杉景勝は石田三成と共謀してこれを阻止しようとしました。しかし、これまで多くの流転を経験し時代の流れを読む力を備えていた藤田能登守信吉は、不戦を主張しました。
上杉家の大部分が開戦へと傾斜するなかで、家中に留まることが難しくなり、信吉は上杉家を出奔し隠棲の道を選びました。
西暦1600年、関ヶ原の戦いで勝利すると、徳川家康は藤田信吉を初代西方藩主に取り立てました。
信吉はついに大名となりました。その際に構えたのが、実相寺のすぐ北にある二条城でした。

西暦1615年、信吉は改易となり、西方藩は僅か15年で途絶してしまいました。大坂夏の陣での不手際が理由であるとの説があります。

藤田能登守信吉公墓所1

藤田能登守信吉公墓所2

 

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