栃木県小山市の、小山氏により鎌倉時代に築かれたという祇園城跡(小山城とも言います)を紹介します。
祇園城跡(小山城跡)
栃木県の南部にある小山市の、JR小山駅から、西進して国道4号を渡ると小山市役所があり少し先に思川があります、その手前の北側一帯が、祇園城跡(小山城跡)になります。現在は、城山公園として、市民に親しまれてします。
小山氏は佐野氏と同じく、藤原秀郷の子孫で、鎌倉期には小山に領地を持っていたと言われています。南北朝の騒乱では小山朝氏は南朝方についたため勢力が衰えました、小山氏の下野守護職は宇都宮氏に奪われ、さらに一族が分裂して、朝郷の弟氏政が北朝について争い家督を嗣ぎました。
下野守護職と所領を巡る宇都宮氏との対立を招き、鎌倉公方足利氏満の介入を招き小山義政は降伏しまた。
西暦1560以後の上杉謙信の関東進出以後は、小山氏も周辺の大名同様、上杉、北条の間で帰属を変えて、一族を守ろうとしました。
このため、双方から攻撃を受け、降伏、復帰を繰り返しました。上杉氏の侵攻がなくなると北条氏対佐竹氏の対立となりました。
西暦1574、北条軍の攻撃により祗園城は落城し、小山秀綱は佐竹義重を頼り逃亡しました。
この北条軍の攻撃には秀綱実弟の結城晴朝も加わっていたと言われています。祗園城は北条氏の北関東攻略の拠点として拡張され、北条氏照の管轄下となりました。
小山氏は祗園城奪回の作戦行動を起こしたが復帰はならずに、西暦1582に、甲斐の武田氏が滅亡により関東に入った滝川一益の調停で、祗園城は小山秀綱へと返還されました。
滝川一益が関東から去ると、小山秀綱は北条氏の配下となり、最後は小田原の役で北条氏とともに小山氏も滅亡しました。
西暦1616、本多正純が祗園城主となりましたが、西暦1619国替えになり、祗園城は廃城となりました。
祇園城跡は公園となっているため非常に歩き安く、また遺構も整備されていますから、はっきりと見てとれます。
本丸
説が分かれますが、公園の案内板には本丸は、南の公園入り口に近い場所が、本丸(主郭)だそうです。
いろりと説があるのも納得が行きます、時代の流れに伴い城主が変わると、改修されますからね。
塚田西曲輪跡
平らな部分が広い塚田西曲輪広場にきました。
桜の季節に来たら、気分が良いことでしょう。
小口(虎口)
少し残念な小口(虎口)です、枯れ葉の集積場になっていました。
川の浸食で、高低差があり、滑り落ちたら上がるのが困難ですから、このようにしているのかもしれませんね。
大銀杏
小山市指定文化財(天然記念物)の大銀杏があります、樹齢は不明ですが、200年前にはすでに大木と言われていたそうです。
祇園城跡(小山城跡)データ
所在地 | 栃木県小山市城山一丁目 |
電話 | 0285-23-1111 |
名称 | 城山公園 |
小山市指定文化財 | 大銀杏 |
駐車場 | 小山市役所駐車場が利用可能です(無料) |
トイレ | あり |