寺野東遺跡(おやま縄文まつり広場)「小山市」

栃木県小山市の国指定史跡寺野東遺跡(おやま縄文まつり広場)の紹介です。

寺野東遺跡(おやま縄文まつり広場)

栃木県小山市の南東部にあり工業団地の東端県道146号付近に立地します。

国指定史跡となった寺野東遺跡は、平成16年10月に「おやま縄文まつりの広場」として公園化して、環状盛土遺構や水場遺構、石敷台状遺構が復元され、発掘された貴重な遺物の数々や模型、映像などを通して遺跡についてやさしく楽しく学ぶことができます。

おやま縄文まつり広場

おやま縄文まつり広場

ここは、田川の西岸の台地に広がる遺跡で1990年からの5年間、工業団地造成にともなう発掘調査が行われました。この調査の結果、旧石器時代から平安時代までのムラや墓地であったことが分かりました。
この中でも特に注目された縄文時代の様子について紹介します。
まず、縄文時代中期前半から後半(4,600年~4,300年前)に東側の台地に径およそ190mの範囲の大きなムラが営まれました。竪穴住居跡74軒と木の実などをたくわえた袋状土坑がたくさん見つかりました。後期初頭(4,000年前)になると、ムラの規模は小さくなり、やや低いところに営まれるようになります。このころに水場遺構がつくられます。木の実のアクぬきを目的とした水さらしの施設が見つかったことにより、後期には谷の水を積極的に利用し始めたことが分かります。
後期前半~後半(3,800年~3,000年前)になると、村は谷の東西に営まれます。東側には、関東地方では初めて確認された巨大な環状盛土遺構がつくられます。これは、後期前半から晩期前半までのとても長い間つくり続けられたものです。また、谷の小川から見つかった木組遺構は、多くが後期後半から晩期にかけてつくられたものです。

晩期(3,000年~2,300年前)のムラは、環状盛土遺構内側のけずられた部分に営まれたようです。また、小川の中にはひときわ大きな木組遺構がつくられました。大型の木組遺構はトチの実のアクを取りのぞくための施設と考えられます。
このように、寺野東遺跡は縄文文化の水準の高さを実証する貴重な遺跡であるため、1995年11月8日、国史跡に指定されています。

広い無料駐車場に、停めて入場します。直接公園広場には、行くことが出来ません。
エントランスから入り、受付カウンターに記帳して入場します(無料)。

おやま縄文まつり広場ガイダンス

おやま縄文まつり広場ガイダンス

順路に従い歴史の旅に出発です。

おやま縄文まつり広場ガイダンス

おやま縄文まつり広場ガイダンス

布を織る道具ですね。

おやま縄文まつり広場ガイダンス

おやま縄文まつり広場ガイダンス

木組遺構は、木の実のアクを抜くための水さらしの施設だそうです。

おやま縄文まつり広場ガイダンス

おやま縄文まつり広場ガイダンス

これで、包丁などの代わりにしていたとは、包丁が切れないなんて、言ってはだめですね。これに比べたら、どんなに古くなっても切れすぎます。

おやま縄文まつり広場ガイダンス

おやま縄文まつり広場ガイダンス

屋外に出ると、木組遺構の実物を展示していました。エアー(空気)を送り続けていました。

ドングリは、そのまま食べると、渋くて苦くてとても食べられませんよね、こうして古代の方達は、アクを抜いて食べたのですよね。

因みに、ドングリとは、ブナ科のカシやナラなどの実の総称です。栗や胡桃はそのままでも食せますが、ドングリを一度食べてみましたが無理でした。リスなどの小動物しか食べられません。改めて先人の知恵を素晴らしさを再認識しました。

寺野東13号古墳

寺野東13号古墳

古墳や水場といった遺跡が、公園化された広い場所にあり、天気の良い日でしたら、ゆっくりとのんびりと過ごせます。

寺野東遺跡

寺野東遺跡

 

国指定史跡寺野東遺跡(おやま縄文まつり広場)データ

所在地 栃木県小山市梁2075-4
電話 0285-49-1151
名称 おやま縄文まつり広場
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日)年末年始
入館料 無料
ペット 入場不可
駐車場 あり
トイレ あり
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