結城城跡(城跡歴史公園)「茨城県結城市」

   

茨城県結城市結城の、結城城跡(城跡歴史公園)の紹介です。

結城城跡(城跡歴史公園)

結城家歴代の位牌所の乗国寺の、北西方向にあり、結城市街地の市役所や結城小学校の東の小高い丘の上に立地します。

現在は、城跡歴史公園として整備されています。駐車場は公園入り口に数台程度ですが、西側の居城跡から一段下りたところに、大きな駐車場が整備されています。

案内地図

概要

小山下野大掾政光の四男朝光が西暦1181年(養和1年)に、志田義広の乱鎮圧の功により下総結城郡の地頭職に任ぜられ、結城氏を名乗って居館を構えたことが始まりです。

西暦1438年(永享10年)に、結城合戦が起りました。
足利持氏と関東管領上杉憲実が対立し、持氏と嫡子義久が自刃する事件が起こり、持氏の次男・春王丸(十三歳)、三男安王丸(十歳)、四男永寿王丸(三歳)は鎌倉を逃れ、結城城の結城氏朝に匿われたことに始まるとされています。
氏朝は遺児を奉じて決起することとなり、これに古河城の野田氏行、関宿城の下河辺氏らも加わりました。

対して将軍足利義教は前関東管領上杉憲実に征討を命じ、関東管領の上杉清方、扇谷上杉持朝らが西暦1440年(永享12年)に、武蔵・上野・信濃の諸将を率いて結城城を囲みました。

幕府の大軍は結城城、古河城、関宿城を包囲して攻撃しました。
古河城、関宿城は落城するが、結城城は陥落せず、篭城軍の一部は降伏したが、篭城したまま年を越しました。

翌年、西暦1441年(嘉吉1年)に、幕府軍の総攻撃で、氏朝・持朝父子は自刃しました。
春王丸・安王丸は城外で春王丸・安王丸は捕らえら、後に殺され結城城は落城しました。
落城の際に氏朝の末子、七郎は脱出し佐竹義憲に保護されました。
遺児の一人永寿王丸は嘉吉の乱により、命拾いし西暦1447年(文安4年)に、永寿王丸により鎌倉府が復興され、鎌倉公方足利成氏として復活しました。

これにより七郎が結城氏を再興します。その後、成氏は享徳の大乱により鎌倉を追われ、西暦1455年(康正1年)本拠を古河に移し、以降「古河公方」と呼ばれました。
西暦1555年(弘治1年)に、結城政勝は伊勢参内の帰りに北条氏康に誼を通じている。
その留守を狙って小田氏治が結城領内に侵攻する意図を見せたため、西暦1556年(弘治2年)に、政勝は結城城に水谷、山川、岩上、多賀谷らの重臣を参集、北条氏康も援軍を派遣し小田方の海老ヶ島城を攻撃、小田氏治を第一次山王堂の戦いで破り、小田城も陥としました。
この年、政勝は有名な「結城氏新法度」を出しています。政勝の死後、相続する者がいなくなったため、小山高朝の次男晴朝が相続しました。
小田氏治は政勝急死の報を得て結城城を攻撃したが、小山高朝、水谷治持、真壁氏幹らの援軍で小田軍を破りました。

西暦1560年(永禄3年)に、結城晴朝の留守を多賀谷政経が離反し小田氏治、佐竹義昭、宇都宮広綱の攻撃を受けるが和睦します。
この年、長尾景虎(上杉謙信)が関東に出陣、結城氏も上杉軍に参じました。
西暦1563年(永禄6年)の、謙信の関東出陣では、謙信は北条に寝返った小山秀綱を攻め、晴朝は援軍を派遣したが、小山秀綱は降伏開城、謙信は晴朝の籠る結城城を攻めようとしたため上杉軍に下りました。

西暦1564年(永禄7年)に、謙信が越後に帰ると北条氏政は20000の兵を率い結城城を攻撃、晴朝は氏政に降伏しました。
西暦1565年(永禄8年)、謙信が関東に出陣すると今度は上杉に降伏、謙信が帰ると今度は北条に下るという河原の葦のような変わり身ようでした。
西暦1574年(天正2年)に、北条氏政は結城晴朝に兄・小山秀綱を攻撃させ、降伏させました。
しかし、晴朝は裏で上杉、宇都宮・佐竹勢に同盟を求めていました。
西暦1590年(天正18年)に、小田原の役が起こると結城晴朝は素早く秀吉に誼を通じ、北条氏照配下祇園城を攻め落城させたが、どさくさにまぎれて宇都宮領にも侵攻、鹿沼・壬生などを横領しました。

晴朝は奥州討伐に下向する秀吉を結城城で饗応、養子の斡旋を嘆願し、家康次男で秀吉の養子に入っていた秀康を養子に迎えた。
結城秀康の下、秀吉から宇都宮領横領分を含む十万一千石を安堵されました。
結城晴朝はころころ主を変えた人物として有名で、あまり評判は良くはありません。
しかし、周囲を上杉、北条、佐竹、宇都宮といった強力な大名に囲まれ一族を存続させるにはこの方法しかなかったのかもしれません。
近隣の佐野、壬生、皆川氏等も似たり寄ったりである。ただし、晴朝の読み手は全て的中しているのが並みの能力ではないようです。

西暦(1601年(慶長6年)に、結城秀康は越前福井城に転封し、松平姓に戻り結城氏は歴史から姿を消しました。

秀康移封後、結城城は廃城となりましたが、西暦1700年(元禄13年)に、水野勝長によって再興され、明治の廃藩置県に至るまで水野家の居城となっていました。

北側の土塁と東側の土塁

結城城北側の土塁

結城城北側の土塁

かつては、水堀が有ったと言われるが、現在は水田になっています。

本郭

本郭、現在は公園

現在は、公園と整備されたかつての、本郭です。

結城城跡(城跡歴史公園)データ

所在地茨城県結城市結城2486-1
名称城跡歴史公園
駐車場あり
トイレあり

 

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