ゴールデンウィーク期間中の益子焼陶器市も終わり、平常時の静けさが戻る、益子町の陶器関連販売店街です。
益子の魅力発信
陶器市それだけか魅力ではありません、では少しずつ紹介してまいりましょう。
共販センター
先日大勢の観光客でにぎわった、城内坂も観光客の姿は、まばらですが、全くいないわけではありません。
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画像は、共販センター内の駐車場です、この駐車場内に仮設テント販売所を設置して、陶器が販売されますゴールデンウィーク中は、おすなおすなの大盛況でしたが、今は静かになりました。
益子古城跡
城内坂の由来は、この画像の左手側に小高い丘がありまして、その地が中世の城跡、益子古城益子氏の居城(居館)です。
本丸広場で自由散歩する愛犬まぁこ。
本丸の東側に綺麗な土塁が残っております。
オブジェ
僕には、理解しがたいオブジェ鉄筋棒を溶接して、塗装無しのサビサビ状態です、見方でしょうが景観を損ねているようにしか、思えないのは、僕だけでしょうか。
益子古城は従来まで平安時代末期に築かれた益子氏の居城とされてきたが、発掘調査によって戦国時代に使用された城郭であることが明らかとなった。益子氏の居城の変遷としては益子小学校が建つ益子城が最初の居城という可能性が高く、戦国時代に益子古城が築かれて、両城の詰め城として西明寺城が存在していたのだろう。益子小学校に隣接する土塁と堀に囲まれた民家が益子氏の最初の居館で、それから益子城が築かれたのではないだろうか。こうなると益子城と益子古城の呼称は逆になるべきだが、とりあえず慣例通り益子古城として扱うこととする。
益子氏は古代氏族の紀氏の末裔を称しており、清原氏の末裔を称する芳賀氏とともに紀清両党と呼ばれ、奥州征伐では宇都宮氏に属して軍功を挙げ、源頼朝にその武勇を賞賛されて源氏の白旗を与えられている。
益子氏は戦場における勇猛さをもって宇都宮氏を支えたが、戦国時代になると宇都宮氏との折り合いが悪くなり、自家の内紛もあって次第に独立色を強めていった。領地が隣接する笠間氏とも争うようになった頃に益子古城は築かれたと考えて良さそうだ。
平安時代末期から下野屈指の武勇を誇った益子氏も同族間で孤立するようになり、天正17年(1589)に後北条氏に通じたという嫌疑をかけられ、宇都宮氏一門の攻撃を受けて歴史から消えていった。
高館山城跡
続いて、高館山城跡に移動します、益子古城から東の方向に位置する高館山こちらは、西明寺で有名な山です、通称西明寺城とも言われています。
益子古城に平常時は居館として使用して、有事の際に敵を迎え撃つための、詰め城として作られたようです。
天然記念物シカクタケ
西明寺の境内東側の土塁付近に、天然記念物のシカクタケが鬱蒼と茂っております、これを見るだけでも十分ですが次へ行きましょう。
三重塔
三重塔を土塁から見上げて撮影しました、高館山の中腹よりやや麓側に位置する西明寺です。
本丸
本丸は山頂付近です、足に自信がある方は、遊歩道が整備されていますので時間をかけて、山頂を目指すのもいいのではないでしょうか。
道路が整備されており山頂手前に駐車場があるので、そこから徒歩で本丸まで行けます。
5月とは言えど、夏の陽気です、はぁはぁが止まりません。
やっとの思いで本丸広場に到着しました、達成感で感無量かな、暫し休憩をして、クールダウン
降りる時は元気な、まぁこ
来た道と反対側に降りているのに、知っているかのように勝手に移動する、まぁこ
城の一番下の郭にもなる西明寺。写真の三重塔や藁葺きの山門など風情のある建物(国の重要文化財)がたくさんある。西明寺は真言宗豊山派に属する寺で、寺伝によれば、天平9年(737)行基菩薩の草創で、天平11年(739)落慶供養が行われたと伝えられる。この寺院はたびたび兵火に遭って消失しているが、三重塔は、天文7年(1538)に益子宮内大輔家宗によって建立されたものだという。
いかがですか、陶器市期間中だけではなく、こう言うところが沢山あります、歴史探訪がてらに陶器を購入されるのも良いのではないでしょうか。