雲龍寺(うんりゅうじ)「栃木県鹿沼市」

栃木県鹿沼市の雲龍寺(うんりゅうじ)の紹介です。

雲龍寺(うんりゅうじ)

竜雲寺は、国道293号沿いにあり、鹿沼市役所の南側、中心市街地に立地します。

雲龍寺由緒

雲龍寺は鎌倉時代の創建で、平家の落ち武者の後裔が法然上人の高弟を招いて開いたのが始まりと伝えられています。当初は押原郷にありましたが西暦1504年(永正元年)に現在地にあった末寺草久庵の境内に移り旭蓮社義扇心公上人(清厳寺開山)を招き中興開山したと伝えられています。

押原村(鹿沼宿)

天文元年(1532)に壬生氏の築城により城下町となり、また壬生氏と日光山との深いかかわりから今宮権現が勧請され今宮神社が建造された。天正18年(1590)壬生氏の滅亡後はその機能を失ったが、江戸時代に入って徳川家康の日光廟の造営とともに御社参の街道の宿場町として町割りがなされ、元和3年(1617)家康の遺骸が薬王寺を経て日光廟に祭祀されてより、宿場として繁栄するとともに地域の産業・経済・文化の中心部となった。宿場には南北に二筋の街道が通り、田町・内町があり、田町・内町それぞれ東・西に別れ、名主・問屋が置かれた。

また両者の東側を合わせて押原東町、西側を合わせて押原西町と称し、元和3年(1617)東町・西町に分け二給支配、享保10年(1725)両町同支配、安永4年(1775)より宇都宮藩領となった。「慶安郷帳」には二筆で記載される。一筆は512石余(田244石余・畑268石余)、一筆は473石余(田228石余・畑245石余)、ほかに朱印地が今宮権現50石・宝蔵寺10石・薬王寺10石や寺社の除地があった。慶安2年(1649)以降の村高は、東町964石余、西町719石余であった。このように村内が東町と西町にわけられ、異なる領主によって支配されることとなった。街道筋に当たり、問屋は交通・運輸に携わり、大通行の時には助郷村の人馬の差配に当たった。

鹿沼宿の宝永7年(1710)の助郷は西鹿沼村など二十二箇村勤高、一万二千二百九十六石であった。また公用の本陣や脇本陣があり、旅籠屋も増加して賑わった。交通量の増加とともに往還筋にある内町が発展し、古来の四・九の市日も繁昌するようになったが、市日以外の商いも盛んとなり、田町と内町の間で販売商品をめぐって幕末まで激しい争論が続いた。天保9年(1838)には家数738軒・人数2851人とあり、同14年(1843)には酒造10・穀屋13・麻24・荒物22・大工22・茶屋26・旅籠屋20をかぞえ、また大麻や木材などの特産物を介して江戸や房総などと商取り引きや交流も盛んになり、生活・文化も向上し、今宮神社の祭礼には豪華な彫刻をもつ屋台が出現して踊り・狂言が催された。また鈴木石橋により私塾「麗沢の舎(りたくのや)」がひらかれるなど、地域の産業・経済・文化の中心地となった。鹿沼市史資料より

雲龍寺石碑

鹿沼市雲龍寺石碑

鹿沼市雲龍寺石碑

雲龍寺山門

鹿沼市雲龍寺山門

鹿沼市雲龍寺山門

雲龍寺鐘楼

鹿沼市雲龍寺鐘楼

鹿沼市雲龍寺鐘楼

雲龍寺本堂

鹿沼市雲龍寺閻魔堂

鹿沼市雲龍寺閻魔堂

閻魔大王様像
鹿沼市雲龍寺閻魔大王様像

鹿沼市雲龍寺閻魔大王様像

雲龍寺本堂

鹿沼市雲龍寺本堂

鹿沼市雲龍寺本堂

鹿沼市雲龍寺本堂内

鹿沼市雲龍寺本堂内

雲龍寺データ

所在地 栃木県鹿沼市寺町1351
電話 0289-62-3397
称号 天動山 往生院 雲龍寺
宗派 浄土宗
駐車場 あり
トイレ あり

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