栃木県芳賀郡芳賀町八ツ木の、般若寺(はんにゃじ)の供養塔と種姫様(たねひめさま)の紹介です。
般若寺跡(はんにゃじ)の供養塔と種姫様(たねひめさま)
道の駅はが、から北に約5mの所に立地しています、真っ直ぐ農免道路を快調に北上すれば良いのですが、なにせ一時停止を無視する輩が多少見かけます、信号がない見通しの交差点は注意すべきです。
由緒
供養塔は、五行川東岸台地上の般若寺は、西暦820年(弘仁11年)創建されましたが現在は廃寺となっています。
8代将軍徳川吉宗には、家重・宗武・宗尹(むねのぶ)の3人の男子がありました。
後に、家重は9代将軍になり、宗武は徳川左衛門督宗武と称し、徳川御三卿(さんきょう)の一つ田安家を名乗り、宗尹はやはり三卿の一つ一橋家を名乗ったのは有名なお話です。
種姫は、徳川左衛門督宗武の娘として、西暦1765年(明和2年)、田安家の館で生まれ西暦1775年(安永4年)12月に10代将軍家治の養女となりました。
西暦1782年(天明2年)に10代目紀伊藩主徳川治宝(はるとみ)と婚約が成立し、同3年に結納を交わしました。
ところが養父である将軍家治が西暦1786年(天明6年)7月病床に、1カ月ほど後なくなってしまいました。
家治が病床にあり、自分の命が幾ばくもないことを知り、種姫を呼んで遺言で申すことには、「野州般若寺の僧恵乗に頼んで先祖の供養をしてもらっている。私の没後は、おまえが私に代わって国家安寧、子孫繁栄のため、また有徳院殿(祖父吉宗)、惇信院(父家重)と親族の菩提をともらうため、寺院を建立し宝塔を建立してもらいたい」とのことでした。
種姫は自ら紺紙に金泥で宝篋尊勝無量寿等之陀羅尼を数巻書写し、官女らの写経なども合わせ、将軍の爪髪などすべて塔内に奉納して菩提を祈ったそうです。
般若寺は、明治時代に焼失し、現在跡地には供養塔と般若寺の歴代僧の墓碑が残っているます。
供養塔は西暦1980年(昭和55年)1月10日、栃木県有形文化財に指定されています。
般若寺跡データ
所在地 | 栃木県芳賀郡芳賀町芳志戸4212 |
電話 | 028-677-6018芳賀町役場商工観光課商工観光係 |
名称 | 般若寺跡と供養塔 |
栃木県有形文化財 | 供養塔 |
駐車場 | あり |
トイレ | なし |
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