栃木県佐野市の、唐沢山城跡の紹介です。
唐沢山城跡
佐野市田沼の県道144号と115号の栃本交差点から115号にて東進して、唐沢山に登るルートと佐野市犬伏町の国道270号と141号犬伏町交差点141号にて北進するルートがあります。
昨年の大河ドラマの1シーンで紹介された犬伏の別れで、新町薬師堂のそばの交差点です。
115号ルートの方が路幅は広いです。
城は関東屈指の山城であり、栃木県内の城跡規模は、第2位と言われています(1位は、烏山城跡)名将上杉謙信や北条氏政・氏直さえ撃退した輝かしい戦歴を誇ります。
標高245mの唐沢山の山頂を中心に、尾根沿いや山腹に曲輪・堀・土塁等を配置、範囲は東西約700m、南北約250m程度、周囲の尾根等にもまだ多くの遺構が残されているようです。
平将門の乱の鎮圧に功のあった藤原秀郷が築いたと言われいて、築城は西暦940年頃です。
現在、本丸に唐沢山神社を祀っています。
藤原秀郷は平将門の乱鎮圧の功で従四位下下野守に任ぜられ、後に下野鎮守府も歴任し五代頼行までこの職が受け継がれました。
その後は源氏に移り、六代兼行は足利に移り姓を変え、藤原姓足利氏となります。
足利に両崖山城を築いた兼行はこの城に移り、一時、唐沢山城は廃城となります。
この藤原姓足利氏は、源氏姓足利氏に滅ぼされます。
藤原俊綱(藤原姓足利氏9代)の弟戸矢子有綱は、藤原姓足利氏滅亡の一年間の西暦1180年(治承4年)、唐沢山城を再興し、「佐野氏」を称とし佐野氏の初代になります。
佐野氏も他の関東地方の豪族と同様、それほどの勢力を持つまでは至らず、精々数万石程度の実力でした。
このため、戦国時代になると北条、上杉、佐竹といった巨大大名の勢力争いに翻弄され、これらの者の間でころころ帰属を変えることになります。
一族の生き残りのためであり、付近の結城氏、皆川氏、壬生氏も皆同様です。
このような中で唐沢山城はいくつかの戦闘の舞台となり、戦国史を飾ります。
西暦1561年(永禄4年)年2月、佐野昌綱は上杉謙信の関東出陣に際し上杉方に着くが、北条氏政35000の兵に包囲される。
上杉謙信は上野平井城から救援に向かい、重囲の中甲冑すらつけずにわずか40数騎の供を引き連れて敵中を突破して入城し危機を救い、北条方の兵は「これぞ毘沙門の化身なるべし」と恐れ、氏政は兵を退いたと言われています。
その後、佐野昌綱の末子虎松丸が上杉家に養子に出るなど、両家の間柄は親密であったそうです
しかし、佐野昌綱は以後、北条方に付いたり、上杉方に付いたりを繰り返し、両者から、その都度攻められては降伏を繰り返しています。
佐野宗綱(28代)の時には、北条氏の圧力で上杉家と袂を分かち、西暦1576年(天正4年)上杉の15000の大軍に攻められ、本丸間近まで攻め込まれるが、策略でかろうじて撃退し、上杉謙信を撃退した城として名声を挙げています。
その後、上杉氏に帰属するが、翌年西暦1577年(天正5年)今度は北条氏政が20000の大軍で攻めるが、これも良く守り撃退したます。
このように二大勢力の狭間で佐野氏は揺れ動き、その都度、攻撃を受けているが、降伏して和議を結ぶことはあっても、唐沢山城自体が落城することはありません。
しかし、佐野宗綱は西暦1583年(天正11年)正月1日、勢力争いをしていた長尾顕長を討つために宗綱は家臣の反対を押し切り出陣するが、須花坂の戦いで破れ、宗綱自身も敵弾を顔面に受けて討ち死にしてしまいます。
上杉家へ養子に行っていた弟虎松丸も戦死し、宗綱には嫡子がいなかったため、跡目相続を巡って騒動が起きました。
養子を迎えることになったが、佐竹から迎えるか北条から迎えるか二派に分かれて対立し、同年2月北条氏直(5代)は、兵を藤岡城まで進め佐野氏に圧力をかけます。
当時、京にいた宗綱の弟天徳寺了伯は、佐竹派で動いていた。
結局、北条方は和議の条件として、北条氏政の弟氏忠(氏康五男)を佐野家へ送り込み、佐野氏忠と改名し、佐野氏を完全に乗っ取ってしまう。
このことにより、小田原の役では、佐野氏は北条方に付くことになる。当時、豊臣秀吉に仕えていた天徳寺了伯(佐野房綱・宗綱弟)は、実家の佐野氏を案じ秀吉に事情を話し、本人自ら赴き、唐沢山城内の北条勢の追い出しに成功ます。
これにより、佐野氏の断絶は免れ、39000石が安堵されました。
西暦1593年(文禄2年)、秀吉家臣、富田知信の二男信種を養子とし迎え、秀吉の一字を賜り佐野信吉と改名し佐野氏が継続します。
関が原の戦いでは佐野氏は徳川方に付き、結城秀康に従い宇都宮城で上杉氏に備えます。これにより徳川大名としての道が開けます。
西暦1602年(慶長7年)、佐野信吉は佐野城築城を開始、西暦1607年(慶長12年)に居城を移し唐沢山城は廃城となります。
徳川の時代になり高い山の上の城は防御城有利であるが、戦闘がなくなった時代には領地支配の場所としては不便であったことが事実と思われる。
唐沢山城には破城された形跡が全くないこともそれを裏付ける。
佐野氏は西暦1614年(慶長19年)改易されるが、当主佐野信吉は秀吉の家臣、富田知信の子、信種が養子として佐野家を継いだ人物であったため、家康の一連の豊臣大名つぶしの一貫であったと思われます。なお、佐野氏は旗本として復活し、明治維新まで継続しました。
くい違い小口(虎口)
敵の侵入を防ぐためカギの手に造られた小口(虎口)
白いのが猫で茶色で足が濃い茶色の狸が近くにいますが、お互いに警戒は全くしていませんでした。動物園と交通事故に遭った狸以外をこんなに近くで見たのは初めてです。弱っていて動けない様子でもななさそうです。(撮影距離10m程度)
天狗岩
物見台と考えられています。旧田沼町南部方向を撮影しています。
大炊の井
直径8メートルの井戸は、今日まで渇れた事がないと言われています。
避来矢山と主郭部を隔てる堀
主郭(本丸)
二郭(二の丸)
奥御殿直番の詰め所があったそうです。
のずら積みの石垣が圧巻です。
売店・レストラン
唐沢山城跡データ
所在地 | 栃木県佐野市富士町1409 |
電話 | 283-23-1939(唐沢山レストハウス) |
名称 | 唐沢山城跡・唐沢山神社・唐沢山レストハウス |
駐車場 | あり |
トイレ | あり |