栃木県那須烏山市森田の、森田城跡(芳朝寺)の紹介です。(ほうちょうじ)
森田城跡(芳朝寺)
那須中心街の南西方向にあり、旧南那須町の森田地区は、県道10号から森田地区に入るルート(北方向から)と県道64号向田地区から入るルート(南方向から)がありますが、後者の方を勧めます。
向田西一公民館付近の交差点を、斜めに北進する道でしたら道なりに約3kmで、乗用車同士すれ違い可能です。
公園として整備され、駐車場とトイレがあります。しかし公園には誰もいないかったのですが、駐車場は、一台分しか空いていませんでした。
案内地図
概要
森田城は森田地区南東に張り出す山の北を荒川が大きく蛇行する場所にある名刹、芳朝寺の東側の山にある単郭の城です。
西側の水田地帯の標高が60m、芳朝寺のある山の中腹の平場の標高が90m、城址は130mであるので、城の比較高は70m程度になります。
芳朝寺(ほうちょうじ)は、大田原氏や森田氏の菩提寺であり、墓所が城に向かう途中にあります。この墓所のある場所も曲輪であったと言われています。
主郭は40m×80mほどの広さで全周を高さ1.5mほどの土塁が残っています。
森田城は平安末期、西暦1185年(文治1年)に、那須資隆の長男太郎光隆(那須与一の兄)の築城と言われています。
しかし、光隆は子に恵まれず、弟泰隆の子を養子にして後を継がせましたが、その養子にも子ができずに、森田氏は絶え、森田城も廃城となりました。
那須高資の弟、資胤が森田の地を領し、森田氏と森田城が復興するが那須氏当主の高資が千本氏に暗殺されたため、資胤が那須氏を相続ました。
資胤の後に、福原氏を継いでいた資邦が入り森田城主となるが、子の資信の代に小田原の役後、豊臣秀吉に那須氏が改易され、資信も連座して森田城も廃城となりました。
今に残る遺構は、戦国末期のものであり、烏山城防衛のため、西の宇都宮氏に備えて整備されたものと考えられています。
堀切
大田原氏墓所の脇の山道(丸太の階段)を登ると、主郭に行けます。
昼前に降った雷雨の名残があり足下が滑って大変でした。
主郭手前で、Vに道が曲がっています。滑りやすい道と暑さと多湿の為に体力が奪われたようで、非常に疲れました。
主郭西の土塁
主郭
主郭から西方向の麓を撮影しました。
大田原氏の菩提寺 芳朝寺(ほうちょうじ)
大田原城主綱清の次子増清が関ヶ原の戦いで功績を上げ、森田村などを与えられ、小塙に陣屋(森田陣屋)を築き、以後累代の居館としました。
芳朝寺は、那須太郎光隆が森田に分地された際、字石原の地に建立されたと言われています。
光隆の法名を「大雲芳朝居士」と号したことから、「大雲山光隆院芳朝寺」と言います。
大田原領になってから菩提所となり西暦1703年(元禄16年)大田原清勝の時、現在地に移転しました。
山門
本堂
大田原氏の墓所
芳朝寺データ
所在地 | 栃木県那須烏山市森田389 |
電話 | 0287-88-7300 |
称号 | 大雲山光隆院芳朝寺 |
宗派 | 曹洞宗 |
駐車場 | あり(公園・境内) |
トイレ | あり(公園) |