茨城県結城市山川にある、水野家累代の墓所、天保の改革を行った老中首座の、水野忠邦の墓を紹介します。
水野家累代の墓所
茨城県結城市山川の、田園地帯の少々高い丘の上にあり、案内板は途中にありますが、すれ違いが困難な道路は、基盤整備の遅れで、複雑になりたどり着くのに苦労しました。
県道23号、山川不動尊大栄寺方面から来る場合は、山川不動尊西入り口の道路を北進して、小さい白山神社があり、その角を西進します。
約50メートルに案内板があり、直進します、道なりに進み、T字路に突き当たったら、西進(右折)すると約100メートルに墓所入り口の案内板が有ります。
帰り道は、東茂呂方面(北東)のほうが、すれ違い可能です。入り口が複雑ですので、説明が難しいため、帰り道にお勧めです。
広い駐車場(砂利敷き)と水洗トイレが完備されています。尚、桜の開花時期には、多くの花見客が訪れるそうです。
案内地図
概要
かつて、山川水野家菩提寺として「万松寺」がこの地に創建されました。
しかし西暦1855年(安政2年)火災により消失廃寺となり、現在は水野家累代の墓が残されています。
水野家の初代忠元が、大阪夏の陣、西暦1615年(元和1年)の武功により、3万石を与えられて初めて大名にとりたてられたゆかりの土地です。
20年後、駿河へ国替えとなった後も、11代忠邦までの水野家歴代当主の墓が山川の万松寺(焼失後も)に造られました。
水野忠邦(西暦1794年~1851年)は、西暦1841年(天保12年)に、11代将軍徳川家斉の死後、老中首座となり、江戸時代の三大改革のひとつ「天保の改革」を行いました。
改革は株仲間の解散や上知令など幕府の強化を目指すものであり、あまりにも厳しすぎたため、諸大名や民衆の反発を招き、わずか2年余で頓挫してしまい、忠邦は失脚しました。
水野忠邦は、唐津藩(佐賀県)・浜松藩(静岡県)の藩主を務め、山川と直接関係はありませんが、藩士の熱い思いにより、累代の墓に忠邦の墓も造られました。
案内板
初代 水野忠元(みずのただもと)
西暦1576年(天正4年)~西暦1620年(元和6年)
2代 水野忠善(みずのただよし)
西暦1612年(慶長17年)~西暦1676年( 延宝4年)
3代 水野 忠春(みずの ただはる)
西暦1641年(寛永18年)~西暦1692年(元禄5年)
4代 水野 忠盈(みずの ただみつ)
西暦1663年(寛文2年)~西暦1699年(元禄12年)
5代 水野 忠之(みずの ただゆき)
西暦1669年(寛文9年)~西暦1731年(享保16年)
6代 水野忠輝(みずのただてる)
西暦1691年(元禄4年)~西暦1737年(元文2年)
7代 水野忠辰(みずのただとき)
西暦1724年(享保9年)~西暦1752年(宝暦2年)
8代 水野忠任(みずのただとう)
西暦1734年(享保19年)~西暦1812年( 文化8年)
9代 水野 忠鼎(みずの ただかね)
西暦1744年(延享1年)~西暦1818年(文政1年)
10代 水野 忠光(みずの ただあきら / ただあき)
西暦1771年(明和8年)~西暦1814年(文化11年)
11代 水野忠邦(みずのただくに)
西暦1794年(寛政6年)~西暦1851年( 嘉永4年)
水野家累代の墓所データ
所在地 | 茨城県結城市山川新宿1653−1 |
名称 | 水野忠邦の墓(水野家累代の墓所 |
電話 | 0296-32-9997 結城市教育委員会 |
駐車場 | あり |
トイレ | あり |
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